ハバロフスク日本人会会報        りっか 六花 рикка             2009夏・Vol.31

 

残暑お見舞い申し上げます。

 

☆新幹事に藤井さん☆

当会の幹事を長きにわたりお務めくださいました遠藤秀一さんのご離任に伴い、同じく総領事館の藤井敬士さんが幹事をお務めくださることになりました。藤井さん、お忙しいなかまことに恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします。

☆学生カラオケ大会☆

515日(金)、ハバロフスク国立経済法律アカデミーの講堂で第7回日本語学習者カラオケ大会が和やかに催されました。『三日月』『ダイヤモンドクレバス』『Tomorrow』『Duty』『みちゆき』『Touch』『君という花』が歌われましたが、私はひとつも知りませんでした。皆さんは何曲ご存知ですか。優勝は、ソロ部門が『三日月』を熱唱されたハバロフスク国立経済法律アカデミー4年生のタチヤナ・シロコヴァさん、グループ部門が『Touch』を洒落た演出で熱演されたコムソモーリスク・ナ・アムーレ市のアムール人文教育国立大学23年生(スヴェトラーナ・デムチェンコさん、エヴゲーニヤ・ドロビンスカヤさん、エレオノーラ・ドロビンスカヤさん、ドミトリー・コチネフさん、スヴェトラーナ・レベデヴァさん)のチーム。また、『ダイヤモンドクレバス』のオリガ・ダツークさん(極東外国語大学1年生)と『Duty』のハバロフスク国立経済法律アカデミー1年生(ヤーナ・アノヒナさん、リリヤ・フロムツォヴァさん、アリョーナ・シヴァクさん、ユリヤ・マジーさん、オリガ・カバノヴァさん、クリスチナ・チェさん、ダーリヤ・レズニコヴァさん)には特別賞が贈られました。

☆子供鉄道☆

当市の創建記念日の531日、今季の運行開始式の行われた子供鉄道(住所:カール・マルクス通り109б、пF27-30-79)を取材で訪ねました。始発駅『ピオネールスカヤ』の場所は、町の中心街から空港へ向かうバスやトロリーを停留所『ハルチザン記念像(パーミャトニク・パルチザーナム)』で降りて、進行方向左手に曲がる道を5分ほど歩いたところにあります。町の開基100年の1958年に開設されたこの鉄道員養成施設では、毎年、6783ヶ月間、全長2,5キロの軽便鉄道を『オルリョーノク(鷲の子)』号が往復しているそうです。折り返し駅『ユビレーイナヤ』での停車中に凛々しい制服姿のサーシャ君はこう話してくれました。「僕は子供鉄道に勤務して3年目。修了後は機関士を目指して鉄道大学に進みます。『鉄道員』というイタリヤ映画ですか、機会があれば観てみたいですね。好きなサッカーチームはもちろん『ロコモチーフ(機関車)』。ミッドフィールダー、ヂニヤール・ビリャレトヂーノフ選手のファンです!」。

☆新聞拾い読み☆

夏休みが短縮される?

学校の夏休みが半分に減らされるそうですが。

秋休みと冬休みを増やして夏休みを短くする構想は5年以上前からささやかれていますけれども、まさに経済危機の今、青少年制作の問題を担当する国家評議会の作業グループの長であるオレーグ・コジェミャーコさんは、その構想へ注意を惹きつけました。経済高等学校教育発展研究所所長のI.アバーンキナさんは、次のように述べています。「ロシヤの教育課程は世界でもっとも負担の大きなものです。けれども、生徒たちの夏休みの問題すら十分に解決されていないときに習慣を変えることは、かれらの親たちにさらなる負担を強い、子供たちを不良にさせてしまいかねません。夏休みを最低ふた月にして残りの休みは気候や子供の休息のインフラといった条件に従って各地域の裁量にゆだねることが、私には理想的な解決に想えます」。(20090722-2830論拠と事実

☆ハバーロフスク市章☆

先日ある方に市章について訊ねられ、『ウィキペディア』を見ましたら、こんな風にありました。

「現在の市章は、3つ目の市章で、1991813日にハバーロフスク市人民代議員ソヴェート幹部会によって承認されました。ハバーロフスクの市章は、ロシヤの国旗の色が配された3つの均等な部分に垂直に分けられた盾のデザインです。この市章の特徴となったのは、それがそれまでのふたつの市章の歴史的継承性を保っている点で、後足で立つ深紅の目を持ち舌を口から出したツキノワグマとウスーリトラが、紺碧の柱によって隔てられたふたつの火山を持つプリモールスカヤ州(沿海州)の紋章が左上に配されたハバーロフスクのもとの紋章を支え持っています。縦の下の部分には市の開基の年である1858という数字が入っています。市章の作者は、ハバーロフスクの美術家S.ローギノフさんです」。ちなみに、ローギノフさんは、毎年冬に当地のレーニン広場で催されています国際氷の彫刻フェスティヴァル『氷のファンタジー』の主催者かと思います。

☆切手☆

先日、中央郵便局の正面の右手に移った記念切手コーナーのかたに『ロシヤ郵便切手カタログ』というサイトを教えていただきました。クリックひとつで見たい切手のカラーの図案とその説明が現れます。http://www.marka-art.ru/catalogs/Catalogs.jsp

 

☆カザケービチェボ俘虜記 其の壱/田中隆☆


 これは私が始めてロシアにやって来た時、2001919日に起こった出来事です。

 今現在、このようなことが起こるとは思えないのですが、後段の参考のため書いておこうと思いました。本当にロシアって嫌な所ですね。

 

 まだまだ昼間は暑く、既に、ロシアに来て一月以上、ハバロフスクに三週間ほど滞在していて、あらかたのバス路線は乗りつくし、街の大概を見てしまい、これと云ってやることもなく、そこらの店で、サラミとチーズを買った其の足で、暇に任せてアフトバグザールに行ってみた。

 あまり遠くなく、今から日帰りできそうな所は無いかと探してみた。

 コムソモリスク ナ アムーレ。駄目だ。現地についたらもう夜。しかも、以前、知り合いのロシア人に「コムソモリスクに行って見たいんだ」と言ったとたんに「お前、絶対一人で行くんじゃないぞ!あそこは、スホーイを作ってる航空機工場を初めとして、造船所、製油製鉄所のある軍事都市だ。以前は外国人立ち入り禁止だったんだぞ!そんな所に、お前みたいにどこでもうろうろ入っていくような奴が行ってみろ!捕まるのが落ちだ!行くなら絶対におれ達か、少なくとも、他のロシア人と一緒に行け」と言われてもいたし。

 ビロビジャン。ここも駄目。付いたとたんに帰りのバスに乗らなくてはならない。

トロイツコエ。ここも、ビロビジャンに同じ。

ビキンもやはりとんぼ返りだし、ホールと共に、すでに行った事があるから結構。

と、中長距離の路線図を見ながら考えていると目に留まったのが、サナトーリー ウスリー、カザケービチェボ。こりゃ、あまり遠くないし、行った事もない。カザケービチェボは、ウスリー川東岸の国境の町(村)。こりゃあいいや。国境なんて見たことがないし、川向こうが外国なんて、風情があっていいやね。なんて思って、時刻表を見ると、40分後に出発。なので、二階のスタローバヤで昼食を取る事にした。

マカロニと、鮭の上に玉ねぎとチーズを乗せて焼いたのと、ボルシチ、紅茶。〆て30ルーブルにならないくらい。安い。

ところが、万事は上手くいかないもので、この鮭がまずい!

臭い臭い、生臭い!よく、市場や路上で、青いビニールシートに血まみれの鮭や鯉、鮒を、ハエのたかるままに並べて売っているのを見かけたが、そんな手合いの鮭だろう。

日本じゃ猫だって食わねえよ!と、口に出して行ってみた。何、日本語で言ったから誰にも解からんだろう。と、猫跨ぎの鮭はさておき、ボルシチに手をつけた。

うわ、しょっぱくて薄い!こんな物食えるか!と、仕方なく、紅茶と、一部、鮭に侵され生臭くなっているマカロニを食って、寂しくなった。

食い終わって、残り物と一緒にトレーを返して、出て行こうとすると「美味しくなかったですか?」というたどたどしい日本語が聞こえた。振り返ると、若いロシア人のお姉ちゃんがニコニコしていた。

「いや……美味しくないって言うかね……まあ……その……」などと、口ごもっていると、

「日本は何でも美味しいですからね。私、日本の料理大好きです」なんていうから、

「日本に行った事あるの?」と聞くと、

「はい。千葉と横浜にいました」などと言うではないか。千葉は地元だ。黙っちゃおれん。

 で、色々聞いてみたりしたわけだが、日本じゃ猫だって食わねえよ!発言もしっかり聞かれていて、「日本人じゃないかと思っていたんだけど、ここは日本人が来るような場所じゃないから、半信半疑だったのだけれど、日本語を話したから、やっぱり日本人だと思いました。日本の猫は、鮭を食べませんか?」と言われ、『うわちゃ!壁に耳あり障子に目あり、天井裏には鼠あり。ってのはまさにこれだね。迂闊なことを言うもんじゃねえな。しかも、ここは何しろ名にしおうスパイ大国、ソビエト連邦の末裔だ。くわばらくわばら』と、腹で考え、「いや、日本の猫も鮭を食うけど、ここのは臭くてさ」と素直に心情を吐露してみたが、別段嫌な顔はされず、いま少し、やくたいもない雑談をして、丁度好い時間つぶしになったのだ。ちなみに、このお姉ちゃんとは、その後、ばったり、横浜、伊勢崎町で出会ってしまうのだが、それはまたベッケンバウアーである。

 

 さて、バスに乗り込み目指すはサナトリーウスリー。カザケービチェボには、そこから歩いていく事になる。10キロはないだろうから、往復4時間も見ればいいだろう。3時にサナトリーウスリーに着けば、行って5時。ぶらぶらして、6時に出発すれば、8時には戻ってこられる。まだ、幾らか陽はあるはずだ。勿論バスも。

 クラスナヤレーチカを過ぎると、本格的に田舎の景色になってくる。秋の空は蒼く高く、ぷかぷかと浮かぶ白い雲。木々は黄色く黄葉して、まさに絶好のハイキング日和。ところどころに点在する田舎の集落を結ぶバス路線は、登って下って、右に左にカーブを切り、森の中をひた走る。ちなみにこのバスは、今は殆んど走っていない、黄色い、ハンガリー、イカルス社製の二両連結バスだった。乗り心地は悪く、車体はぼろぼろ。

 で、サナトリーウスリー到着。降りると、バスの振動が体に残っているのか、どうも、動きがぎこちない。ちょっとロボットな気分だ。

 さて、ここから、目的地、カザケービチェボまで徒歩な訳だが、何、途中まで行って、どうも時間がなさそうだと思えば、引き返して構わない訳だし、道は一本。だろう。迷う事はない。だろう。と、お気楽に、高を括って歩き出した。

 天高く、馬肥ゆる秋。である。

 やさしく頬を撫でる風と、柔らかに、明るくきらきらと輝く日差し。空はあくまで高く、所々に浮かぶ雲は白く、その下に広がる森は黄金色に輝いている。馬車別当が現れて、山猫裁判に連れて行かれてもおかしくない様な、そんなある日の午後だった。

 ぶらぶら歩いて、小半時。おんぼろジグリがおれを追い越したかと思ったら、10メーターほど先に停車した。

 窓から顔を出して、こちらを振り向き、何か叫んでいる。

 近寄ってみると、どうやら、「お前、どこいくねん?外人やろ?こんなとこ、何もあれへんのになにしとんねん?」といったような事を言っている、らしい。ので、「おれな、カザケービチェボいこ思てんねん」と答えると、「あんなとこ何もあれへんど。わしらは知り合いいてるけどな。あんなとこ、外人がいくようなとこちゃうど。○○○持っとんのか?」と言うが、○○○が解からない。ので、「行って駄目やったら、駄目でええねん。ただ、ほら、暇やし。天気ええし」と答えると、「乗れ」と言う仕草。  

乗った。

ただではなかろうと思い、「いくら?」と訊くと「15でええわ」と言うから、15ルーブルを払って、車上の人となった。

安いもんだよ。当時のレートで6070円。はは。車はぽんこつだし二人乗ってるおやじはまさにロシアの田舎おやじ。馬車別当じゃないけど。いいじゃないの。なんぞと思っていると、助手席のおやじが、「お前、これやれへんか?」といって、半リットルのペットボトルを取り出した。

サマゴーンである。

「これな、うちでやったやつやねんけど。ええ出来やわ。ぐっと来るで」みたいなことを言うので、「ほな、一口だけやで」

といって、口を付けた。

『うわ。馬鹿じゃねえのか!何処がいい出来だって?こりゃあ、灯油みたいな臭いがしてるじゃねえか!あったかいし。冗談じゃねえやい。おれが前に飲んだサマゴーンはもっと気が利いてたぞ。焚き火する時のな、着火剤にもなったんだぞ!べらぼうめ!』と思ったが、口には出さず。喉の奥からは、軽い吐き気がぐっと来た。

 そうこうしている内に、カザケービチェボの入り口に着いた。

 紅白の遮断機が下りていて、脇に小さな詰め所がある。

 いやに埃っぽく、地面は白茶けている。陽はかんかんと照っている。

「行ってこいや。もしあかんかったら、バス停まで送ったるから。待っとるからな」と、おやじ共、殊勝なことを言ってくれたので、車を降りて、詰所から出てきた歩哨の若い兵隊に、「ここ、入ったらあかんの?」と訊くと、「書類見せてんか」と言うので、常に携帯のパスポートを差し出すと、ぱらぱらめくり、ためつすがめつしてから、「日本人なん?」と、問うので、「せや。わし、日本人や」と答えると、「なんで、日本人がこんなとこまでのこのこ来いよんねん?なーんにもあれへんど。大体、お前、書類不備やから、通してあかん。帰ったらええわ」と言うので、『こちとら駄目じゃあしょうがねえ。けっ、なんでい、こんなとこは別に見なくたって残念じゃねえし、物見遊山の暇つぶし。とっとと帰えってビールでも飲んでやらあ。畜生め!あばよ、ダスビダーニャ、っとくらあ』と、突発的江戸っ子症候群に襲われ、宵越しの銭は持たず、五月の鯉の吹流し。口先ばかりで腸は無し。な人物になりおおせ、踵を返すと、ジグリおやじの所に戻り、「やっぱりあれや。あかんかったわ。なんや、足れへんかったらしいわ」と言うと、おやじ共、ワルサー、グロッキーのようにうんうんと深く頷き、「だから言うたったやないか。○○○あれへんかったらあかんねん」と言う。此処にいたって、○○○、が通行許可証らしいことが判明した。

 

ちなみに、関西弁で会話が成されている箇所は、ヒアリング能力無し。会話能力無しのロシア語で成されていたのを、関西弁で代弁しました。先方の言っていることは推測。こちらがしゃべっているのは、恐ろしく舌足らずのロシア語。とおぼしめしください。あしからず。

 

今一度、ジグリ車中の人となり、「でも、お前、何であんなとこいこ思たんや?たいがい何もあれへんど?」

の質問に答え、「いや、あのな、おれ、国境いうの見てみたかったんや。あれやろ。ウスリーの向こういうんは中国やろ?」と言うと、「あー、そんなん造作もないわ。この先に小川があってな、それ、ウスリーまでいっとるわ。川沿い行ったらええねん」と、事も無げに言うので、おれも少しその気になった。

ぽんこつジグリで坂を下っていくと、下りきった所に小さな橋が架かっている。

「これやこれこれ。これ伝っていったらウスリーに出るで」と言うから、「ほな、行くわ。まいど、おおきに」何ぞと云って、車を降りた。

 これを去ること3週間ほど前に、沿海州の森の中で、夜間道に迷う。という、恐ろしく不幸で、生死にも係わるような体験をした後なので、『絶対川沿いを行こう。川に沿っていけば、絶対に迷わないからね』と、心に誓い、川を伝って歩き出した。

 しかし、歩きずらい。こんなところに入っていくなど、予測もしていなかったので、サンダル履きである。

 何だか、だんだん面倒になってきたし、『いや、まてよ。あの国境警備隊の雰囲気からすると、どうも、このあたりをウロウロするのは得策じゃあないね。こんな所を見つかったら、ちょっと厄介なことになるかもしれないし。そうそう、チーズとサラミも持ってるし。変に疑いをかけられるより、帰った方がいいかな』と、思い当たり、引き返すことにした。

 ちなみに、この川の終着点に到達したのは、七年後の2008621日。ハバロフスク日本人会の夏の催しの時でした。

 そこは既にウスリー川ではなく、対岸も、バリショーイウスリースキー、で、ロシア領。国境は、やはりカザケービチェボでなければならなかったわけですが。

 

 元の舗装道路に戻って、今度は徒歩で、サナトリーウスリーを目指す。

 結局、車での移動が主だったので、時間的には余裕がある。ぷらぷらと、いたちが道路を横切ったり、エゾリスのような獣が木に登っていくのを眺めたりしながら、歩く。全く暢気なものである。

そんな所に、カザケービチェボ方面から来たダブルキャブのトラックが、おれを追い越し、行きのジグリよろしく停車した。迷彩の軍服を着た、国境警備隊の職員らしい男が乗っている。

何処に行くのだ。と訊くから、サナトリーに戻るのだ。と言うと、のれ。と言う。どうせ道は一本。通りがかりに下ろしてやろう、と言う親切心であろう。有難い事だ。

乗った。

「おまえ、あんなとこで何してたんや?」と問うので、「カザケービチェボ行ったら、入ったあかん。言うから、帰るとこやったんや」と答えると、「何しに行くつもりやったんや?おまえ、中国人ちゃうか?」と言うので、「ちゃうちゃう。この犬チャウチャウちゃうし、って言うか、ここ、犬おれへんけど。だから、犬じゃなくて、わたし中国人ちゃうあるのことよ」と、言下に否定すると、「ほな、書類見せてんか」と言うのでパスポートを渡した。『本来なら、軍関係者に提示を求められる筋合いじゃあないが、ここは国境地帯。やつはおそらく警備隊員。やっぱり見せるにしかずだね』などと思っていると、パスポートを返して、「そんなにウスリー見たいんか?」と言うから、「別にそんな見たいわけでも無いねん。あかんのやから、もう、それでええわ」と答えると、「ほな、見せたるわ」と、車をUターンさせようとするから、「ええねんええねん。別に見んでも。わし、もう帰るわ」と言ったが、「任せとかんかい」と言ってUターン完了。トラックは、元来た方へと戻っていく。

『えらく親切な人だね。どうも。こりゃあきっとあれだよ。交渉して呉れるんじゃないかい。で、通行許可を出そうって言うんだね。きっと。歩哨の兵隊より格上そうだし。まあ、成る様に成りますよ』などと考えているうちに、再び村の入り口。

 一緒に車を降りて歩哨の詰所に行く。

 何だか訳のわからないロシア語でべらべらと、若い2人の兵隊に指示を与えていたようである。

 そして、おれに向かって手を振ると、自分はトラックにとって帰って、行ってしまった。

 残されたおれに、若い兵隊が「パスポート」、と言うので、パスポートを渡した。

 パスポートをめくり、お決まりの、氏名、生年月日、ビザの確認、レギストラーチアの確認、等をして、どこかに電話をかけている。のだが、この電話、平たいプッシュホンのプッシュボタンをなくしたような赤茶色の箱に受話器が付いたようなもので、内線専用らしいのだが、本体の右側面にレバーのような物が着いている。これをぐるぐる回してから電話をするのである。手回し電話!21世紀の世の中に、レバーをぐるぐる回してから、アローアローと言うのである!思わず笑いそうになってしまった。

 ひとしきり、電話をかけたりかかってきたり、連絡など済ませると、しばらく待っていろ。との事なので、雑談タイムとなった。

 若い二人は徴兵組らしい。

「こんな所に詰めててな。おもろい事なんか一個もあれへんで。あーあ、なんや、街行って、可愛いお姉ちゃんでも眺めとったらええんやけど。ここ、牛とかしかおれへんもん。そら、乳でかいけど」

「日本はええとこなんやろ?車もみんなトヨタとかニッサンやろ?時計もセイコーとかカシオで。ほら、おれの時計、これ中国製やで。全然あかん」とか、車、何乗ってんの?コンピューターは?カメラは?やっぱり、日本製がいいよね。あれこれ、わあ、きゃあ、だってここじゃあ山羊が、豚が。と屈託が無い。

 明らかにおれは奴らの退屈しのぎになっているらしい。

「タバコ吸ってええかな?」と訊くと、「ああ、今、灰皿もって来るわ」と言って、空き缶を持って戻ってきた。

 ちなみに、この時は、常に、白水社、ロシア語ミニ辞典、露和‐和露、を携帯していたので、それを活用して会話がなされていたことを、蛇足ながら申し上げておきます。

 

しかし、我々の日本国では徴兵制度と言う物が無いが、ここでは、あたら青春を2年間も軍役で浪費するなど、可哀想な事だ。色々遊んだりしたい盛りなのに。

 と思ったりしたが、さて、自分が彼らの年齢だった時に何をしていたかと言うと、これがはなはだ心もとない。

 ろくな事はしていなかった。はずだ。うむ。軍隊を経験し、厳しい規律を身に付け、その後に立派な社会人として、社会に貢献するのもまた良かろう。とも思わないではなかったが、後々ロシア人を知るに付け、軍役があまりいい結果を出してはいないような気がしている今日この頃ではある。

 などと云っているうちに、詰め所の前に旧型のブルーバードが到着した。

 明らかに上官の到着らしく、二人の若者は、先ほどまでの雑談時とは打って変わって、緊張した面持ちとなる。

 30台後半ぐらいの二人の将校(この時は明らかではなかったが、後に一人は少佐だったことが判明する)、が入ってきた。一人はジーンズに黒いセーター、もう一人は迷彩の上下で、階級章らしい物は付けていなかった。まあ、見ても解からないんだけど。

 再びパスポートを要求され、今度は殆んど尋問である。口調も厳しく、手荷物とジャンパーもくまなく検査される。所持品は、腕時計、タバコとライター、小ぶりのバッグに、パスポート、手帳、辞書、小額の現金、サラミとチーズである。

 どうも、事態は悪い方に転がっているらしい。

 待っていろ。と言われ、入り口を入って直ぐの小部屋に通され、扉を閉められ、外でかんぬきを掛ける音がする。黒い鉄の扉には覗き穴。

 やられた!

 これは、間違いない。国境警備隊に拘束されたわけだ。ううむ。と唸って二メーターほどの高さに空いている明り取りを眺めた。もちろん窓なぞ有りはしないのだ。

 日本式に言えば三畳ほどだろうか。レンガにモルタルを塗った壁に薄水色のペンキが下地も作らず、雑に塗ったくってあるが、所々剥げ落ちていて、床には薄く砂と埃が積もっている。

 殺風景である。

 何だか嘆息し、脱力して、腰がへなへなしたが、腰掛けるべき椅子も無い。急に気温が下がったような気がした。

 あの、滑稽な手回し電話での通信の裏で、実はおれの事を拘引すべく悪逆な計画の手はずが整えられ、伝達されていたに違いない。恐るべし、骨董品、手回し電話。いかに滑稽で古典的でも、通信機としての機能は十二分に発揮していたのである。しかも、兵隊たちの愛想のよさも、総て知っての上でのお芝居だったのだ!

 くそ。

 忌々しくなり、自分のぼんくら加減や、若い兵隊たちにもついでに腹を立てると、気温が回復した。

『あな、ここなくそ我鬼どもめ!同情して損しちまったい。いっそ、死ぬまで牛さん豚さん山羊さん羊さん爺さん婆さん不逞中国人さん相手に暮らしやがれ!若い綺麗な女の子さんと遊ぼうなんぞは言語道断でい!嘘つきは泥棒の始まり!ぶったら豚に良く似てる!おたんちんのひょう六だま!おまえの母さんでべそ!湯島のかげまの息子!』と、既に捕らわれの身であるにも係わらず、ごまめの歯軋り、負け犬の遠吠え。

 

 どれほど放置されていたのか、長い時間か、それともさほどではなかったのか、はっきりしないままにぼんやりしていると、がちゃがちゃかんぬきを外す音がして、きー、と嫌な音を立て扉が開いた。

 声を掛けずに、出ろ。と言う仕草。

 出た。

 件の将校が乗ってきたブルーバードまで連れて行かれるが、そこで待つように指示される。

「タバコ吸ってもいいかな?」と、黒セーターに尋ねるも、言下に「ニリジャー」と、言われてしまった。やはり、既に、完全なる国境侵犯者として遇されている事が良く解かる。

 迷彩が、兵隊になにやら指示を与えている。

 向こうに止まっていたカマスのトラックからぼろきれのようになったタオルを持ってきた。

『車の窓でも拭くのかね?埃っぽいし、汚いしね』と思ったのも束の間。それは、おれの目隠しとなっておれの目を覆ったのだ。マシンオイルの臭いがした。

 肩を押さえられ、後部座席に坐らせられた。

 黒セーターは助手席、迷彩は運転席にそれぞれ坐ったようだ。迷彩は、最後に見た時は肩にカラシニコフを下げていたが、運転中はどうなのだろう。

 車は、ぶう、と動き出し、タイヤが砂利を蹴上げる音がじゃりじゃりと聞こえるが、これから何処に行くのかも解からず、何処を通っていくのか、景色は?なんぞ、何一つ解からない。解かっていることは、相手の手中にはカラシニコフがあるということだ。

 目隠しの鼻の脇からは、ほんの少しの視界はあるのだが、周囲の状況を把握できるほどでも無く、なまじそれが相手に解かるといけないと思い、自重した。つまり、結局、何も見えず解からずだった訳だ。目隠し効果は完璧だった。

『あー、おれがジャッキーチェンとかブルースリーだったら、ここが見せ場の頑張り所。幸い、隣には誰も坐ってないし、両手も拘束されていない。わっ、と襲い掛かり、ばばっと銃と車を奪ったりして脱出してやるんだが。しかし、これは現実。おれはぼんくら。はは、なーんも出来ないもんね』と思うと、やるせなさに襲われる。

『一体おれが何したって言うんだよ?えーっと、新宿の飲み屋の付け。数千円だ。大した事無いな。駐禁シカとしてる四谷警察。もう、随分たってるから大丈夫なはず。自動販売機からタバコをパクった。ありゃ、中学の時だ。東京駅の総武横須賀線地下ホームの線路上で寝てて、電車遅らせたのも、もう、罰金支払済みだし。ええっと……』などと、過去に社会において行った幼稚な迷惑を反芻したりして。

 

 


☆新聞拾い読み☆

ハバーロフスク地方のシポールト新知事に望むこと

 ロマーン・プリトゥーラさん(現場監督)「ハバーロフスクの町はずれに建物を建てようとしている会社に協力してほしいですね。環境のよい場所に新しい建物が現れるのを妨げないように一連の決定を行う必要があります」。アリビーナ・ヤロスラーフツェヴァさん(不動産業者)「仕事柄わかるのですが、住居を持っていない若い夫婦がたくさんいます。知事には、若者たちが新しい住居で家族生活を始められるよう手助けしてほしいですね」。アルチョーム・マキエーンコさん(お巡りさん)「ハバーロフスクはとても美しい町です。知事には今後も町の整備の面で市当局を支援していただきたいですね」。(20090520-2921論拠と事実)

 

☆山下雅司さんの小説「時空の旅人」☆ 〜連載・第18回☆

 


其之 五

 

 

 丘の上に聖所として祀られている墳丘墓の入り口に、奇妙な文様の刻まれた一つの巨石で造られた割り石が置かれている。この割り石に刻まれた文様を一目見て、真紀はこの地がアイルランドにあるニューグレンジの墳丘墓ではないか?と言う考えが沸いて来た。

 ニューグレンジの遺跡は確か、紀元前三〇〇〇年頃に造られた物だと思われていた。

 アイルランド島の首都ダブリンの北側四五キロメートルの処にある遺跡で、ボイニ河の流域にある。この遺跡は考古学者にとっては馴染みの古代墳丘墓だ。この遺跡が世界的に有名になったのは、一九六九年一二月二一日、大学の考古学の教授がある観測を行った。それは遺跡の東向きに造られた入り口の上に造られた、明かり取りの窓の様な処から射す冬至の日の観測結果だった。

 一番奥にある石室まで通路が墳丘墓の中央まで伸びている。一枚板の様な二メートルを越すような高い巨石が壁の様に一列に並べられた通路は、横たえられた十字架の様に墳丘墓の中心まで伸びている。十字架の交わる処の天井の高さは約六メートル。

 冬至の朝の弱い光が入り口の上の窓から射し込むと、其の光は弱いながらも一七メートル先にある通路を進み、最深部にある石室の中を照らし出したのだった。

 北半球のアイルランドやスコットランドの冬の太陽は、朝の九時頃地平線から三〇度も顔を出したかと思うと天空に昇ことなく、午後の三時には地平線に姿を消す。

 朝の一〇時〇四分に差し込んだ冬の弱い太陽の光は、一〇時一五分迄の僅か十一分だけ最深部の石室を照らし出した。冬至の日の太陽も天上に昇ことなく、墳丘墓の明かり取りの窓から水平に一直線に突き進み一七メートル先の石室の壁まで届いた。

 この事が世界中に知らされて、考古学に関心の無い一般の人々にまでこのニーグレンジの墳丘墓は知られる処となった。この墳丘墓は直径七六メートルの円周があり、土饅頭の様に高さ九メートルの高さの土が盛られている。建設当時はこの高さが一四メートルもあった事が知られている。円周上には九七個の縁石が並べられている。

 建設当時は三五個の立石が、墳丘を取り囲む様に立てられたスートンサークルによって

造られていたが、現在は一二個の立石しか現存してい無い。

 東向きの入り口の前には長さ三、二メートル、高さ一、六メートルの見事な文様が刻まれた置き石が横たえられている。螺旋状の三の蕨手文様と四の渦巻き状の文様が並べて描かれている。左側には菱形の四角い文様、置き石の下部には波形の文様が彫られている。

 真紀がこの遺跡をニューグレンジと推理した決め手となった巨石であった。

 春先に日当たりの良い土手に芽吹く『こごみ』の群生の様に、螺旋形の曲線、俗に日本で蕨手紋と言われる文様が巨石全体を覆っている。この文様はアイルランドの墳丘墓に多く見られる文様だ。考古学の助手をしている真紀には、この世界が有史以前で場所はアイルランド島だと想像は付いたが、確かな年代は判らなかった。見事な赤、緑、茶色と色鮮やかな彩色の彫刻で飾られた巨石は、独特の侵しがたい威厳と神聖さを備えていた。

 真紀が初めてこの遺跡を訪れたのは、これから数千年後の世界で、古代遺跡としての巨石建造物と言う事になる。出来る限りこの墳丘墓を良く観察したいと思った。

 それは真紀が考古学を学ぶ切っ掛けになった、古代ロマンの真実を覗けるかも知れないと言う期待と、考古学者としての尽きぬ興味と向学心であった。

 墓室内壁には豊かな装飾が施されているはずであった。

 呪術師ソウルと親しい事が、墳丘墓の内部を観察できる可能性を秘めていた。

 別に二〇世紀の世界に未練はない。有史以前の世界だろうと構わない。

 豊かな自然と共に生き、古代の真実を垣間見ることが出来るなら、それで十分満足してこの不便だけれど、豊かな暮らしが続けて行けると、真紀は自分自身に言い聞かせた。

 自然派願望の真紀には、ここでの生活は決して嫌いな生活ではない。むしろ、憧れていた暮しと言う事が言える。自然に暮らすには、ここより適切な場所は考えられなかった。

 

 飛行機の窓から見えた様に思われた、マンモスの姿は見た事が無かった。

 人々の狩りは森林に生息する鹿や猪等の小動物に限られていた。

 そういえば噴煙を上げる火山の姿もこの土地では見た事がない。草原と湿原、そして其の地に散らばる、大小様々な湖が清涼感を感じさせるだけだった。

 マンモスのいた旧石器時代より、数千年時代が過ぎた新石器時代の様にも思える。

 日増しに入り日が早くなっている様に感じられる。

 夜明けの時間も幾分遅くなった様だ。自然の営みは上手く出来ているとつくづく感じる。夏の盛りは農作業で労働時間は多く、日照時間が長いのは非常に助かる。外での作業が少なくなる冬場は日照時間が短くとも、さほど問題は無い。自然のサイクルに合わせたここでの生活が、真紀には非常に合っていて気に入っていた。

夜明けと共に起床し、日暮れと共に就寝する生活のリズムが、真紀に合っているのでは無く、人間に合った自然の生活様式だと知らされた。夜は早く寝て朝早く起きる。早寝早起きが人間の自然の姿なのだ。

 電気のある生活が現代人の生活様式を変えた。夜遅く迄起きていて、朝は遅くまで寝ている。こんな生活が人間の身体に良いわけが無い。

 最終的に計算してみると、現代も古代人も起床している時間はさほど変わりない。どちらかと言えば古代人の生活様式に近い、田舎の年寄が、長生きする長寿の秘訣はその辺にあると真紀は気がついた。

 この単調極まり無い生活のリズムが、変化する事がある。

 それが儀式の日であり、それは収穫の喜びや、埋葬の悲しい儀式もある。

 悲喜交々の儀式が執り行なわれる。喜びの儀式は祭りとなり、日頃の慎ましやかな生活は姿を消し、狂喜乱舞して喜びを表現する。祭りの原点がここにある。

(追悼の悲しみが、霊魂不滅の信仰を生んだのではなかろうか?)

 埋葬の儀式に立ち会う度に真紀にはその思いが強い。

 残された人々の悲しみと、再び戻る事の無い死ぬ事の恐怖から立ち直る為には、何かの心の拠り所が必要だった。その思いが輪廻転生、霊魂不滅の思考を古代人に芽生えさせたと言えるのではないだろうか?

 その思いが、死者を丁重に埋葬する墳丘墓の建設に結びついて行った様な気がしてならない。再生を願い死の恐れから逃れる為に、古代信仰は生まれたに違いない。

 その思いに真紀は確信を抱く様になって行った。

 丘の上に祀られた『死者達の棺』とも言える巨大な墳丘墓は、死者の霊が現世に舞い戻る為に重要な目印とも言える建造物だった。其処は神聖な場所として霊界と現世を結ぶ大切な場所だった。そう言う考えに立てば、無闇に人々が立ち入る事を禁じていることの意味も判る。再生の霊をお迎えする神聖な場所なのである。

 

 風の囁き、木の葉の衣更え、季節の移ろいは回りの景色の変化でも、読み取る事が出来る。しかし専門家の呪術師マリーンの父、リストから言わせれば矢張り、夜空の星座を見る事に尽きる様だ。夜空にはオリオン座が宙天に輝きを増して来ていた。

 早いもので旅から戻り、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 メグミと出会ったエィブベリの集落、思いもよらなかった小人の村、四人で訪れたストーンヘンジと呼ばれる太古の姿。僅か三ヶ月前の事なのに遠い昔の出来事にも思える。 時間の流れはゆっくりと感じられるのだが、過ぎし日の事は光陰矢の如しだ。

 メグミはリストの家族と共に暮らし、この村の生活にも慣れたようだ。呪術師見習いとしての生活を送っている。マリーンは見近で暮らすメグミがいて幸せそうだった。

 杉浦は勇んで旅立った。旅から戻りすぐの事だった。

 建築士を目指した頃の青春を取り戻した様な、今迄見た事の無い様な生き生きとした顔で出かけて行った。エィブベリのスートンサークル建設の為だった。

 高木は相変わらずのマイ・ペースで生きていた。

 生きていけるだけの狩りをし、衣を繕い、身近な必要な道具を造り、それが何とも言えぬ妙な、幸福感に包まれた暮らしに感じられていた。

 そろそろ、冬の貯えも考えての食料確保の方法も考えておかねばなるまい。そんな事を考えながら、突然、ふと(私達だけなのだろうか?)と言う疑問が沸いて来た。

(私達の他にも『時空の旅人』は存在するのではないだろうか?)

 その思いは日増しに段々強くなって来ていた。

 地球上は広い、たまたま偶然が重なり、私達が出会ったのに相違無いと思われた。


☆サイト情報☆

在留邦人向け「安全の手引き」平成2141日改訂版(在ハバロフスク日本国総領事館のサイトの情報です。)http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/j/ryoji/anzen_tebiki/body.htm

◎『六花』のバックナムバーが読めます。 http://hisgan.fc2web.com

 

☆新聞拾い読み☆

日本全国が麗人ハバーロフスクの最高の≪魅力≫を目にする

 NHKの撮影班が、531日、当市の誕生日に、ハバーロフスクを目にしました。一行は、日出る国の人々に極東の町を紹介する番組を4本の撮影するために当地に1週間滞在しました。これまでアジアの隣人たちは私たちの国を西側からしか知らず、『ロシア語講座』のこれまでの資料映像の撮影はモスクヴァとサンクトペチェルブールグで行われました。そして、今回、日本の人々にシベリヤと極東を紹介することになったのでした。ディレクターのかなざわさんは「日本ではシベリヤ横断鉄道やバイカール湖がよく知られています。視聴者のみなさんは私たちと共にシベリヤ鉄道の旅に出で、ヴラヂヴォストーク、ハバーロフスク、ヤクーツク、イルクーツクの4都市をご覧になれます。」と語りました。ぜひ紹介したい各都市の名所旧跡は、日本で人気のある旅行案内書を参考に選ばれました。ハバーロフスクのそれは、コムソモーリスカヤ広場の聖母就寝大聖堂(ウスペーンスキイ大聖堂)極東美術館、そして、もちろん、アムール河。さらに、東方の客人たちは、先住少数民族ナナイ人の村シカーチ・アリャーンを訪ね、様々な場所を覘きながら当市の通りをぶらぶら歩きました。例えば、中央市場。極東の蜂蜜の種類の多いこと。日本ではどこもだいだい同じ種類ということで、かなざわさんは試しに蕎麦の蜂蜜を一瓶求めました。全体としてハバーロフスクの印象はすばらしいものとなりました。日本からの客人たちがとくに気に入ったのは、極東っ子たちそのものとかれらの思いやりやユーモアのセンスでした。シベリヤと極東の4都市を紹介してゆく30分番組『ロシア語講座』のシリーズは、10月に放映されます。また、集められた資料は、ロシア語会話の書籍に収められます。

ダーリヤ・ウラーノヴァ記者(20090602太平洋の星・抄訳)

ラヂオの夏季周波数

NHKワールド・ラジオ日本」放送時間・新周波数表2009329日〜20091025


 

東南アジア向け>

日本時間   kHz

日本語 11.00-12.00 11760

11.00-14.00 17810

       17.00-19.00 11740

       19.00-02.00 11815

       02.00-04.00  7225

       06.00-07.00 11665

       07.00-09.00 13680

 

<<アジア大陸向け>

          日本時間   kHz

日本語 11.00-14.00 15195

        16.00-17.00  9750

        極東ロシア   6145

        極東ロシア   6165

17.00-02.00  9750

        02.00-04.00  6035

        05.00-07.00  6085

        05.00-09.00 11910

       

 露語 22.30-23.00  6190

 2   (以下、極東ロシア向け)

14.30-15.00 11715

       14.30-15.00 11760

       17.00-17.30 6145

       17.00-17.30 6165

       20.30-21.00 6010

※ここは大きく変わっています。



◎ロシヤ国営ラヂオ「ロシヤの声」日本語放送・新周波数表

2009329日〜20091024

日本時間 21.00-22.00  中波 630 720  短波 5900 7265 7380kHz

日本時間 22.00-23.00  中波 630 720  短波 5900 7265 7380kHz

(※受信環境によってラヂオによる聴取が困難な場合がございます。)

HPアドレス http://www.ruvr.ru (日本語直通 http://www.ruvr.ru/index.php?lng=jap

※リスナーズクラブ『日露友の会・ペーチカ』http://www.geocities.jp/pechika041029/


(上記のサイトでインターネット放送(リアルオーディオ&オンデマンド)をお聴きいただけます。)


※ハバーロフスク支局では番組『シベリヤ銀河ステーション』のコーナーに友情出演してくださる方を募集しております。スタヂオ見学もどうぞお気軽に。(21-41-0732-45-46 / 岡田)

※次のサイトからもオンデマンド放送をお聴きいただけます。

http://www.ruvr.ru/main.php?lng=eng&w=145&p=

 

【編集後記】次号の原稿の締切りは、20099月末日です。趣味のお話し、イヴェント&暮らしの情報、離任着任メッセージ、詩歌やエッセイ、旅の思い出など、みなさま、お気軽に編集担当(岡田和也)までお寄せください職場32-45-46自宅пFax21-41-07/メールokada@mail.redcom.ru)。